徳川家康公由緒の格式と伝統ある名刹

 当山の開山は慈雲院日新上人と申しまして、開基大檀越は徳川家康公でございます。日新上人は徳川家康公が幼少の頃、学問教育の師範でありました。日新上人は、天正六(1578)年に身延山に入山し十七世の法灯を継承され、天正九(1581)年十月に日蓮大聖人第300遠忌を修し、翌年には甲州を領して身延山に詣でた家康公と道話する日々を重ねられました。そこで、将来に弘通所の地を寄せていただくことを約束したのであります。

 そして家康公は天下統一の後、天正十九(1591)年に学問教育に預かった謝儀をあらわし、先年の約束をはたして、日本橋馬喰町に身延山久遠寺の布教所として、寺の敷地約200メートル四方を与え、大久保治右衛門の外護により瑞輪寺が創建されました。

 しかし、慶長元(1595)年に類焼、同六(1601)年に神田に移転しましたが、また類焼し慶安二(1649)年現在の地、谷中に安藤右京之進の外護により再建築致しました。また、安政三(1856)年台風のため大半が破壊、明治元(1868)年上野戦争により悉く烏有に帰したのであります。

 その後、歴代上人のご丹精により復興再建され、現在に至っております。なお、等頭は十五坊が存在しましたが現在は浄延院、体仙院、正行院、久成院、本妙院の五院でございます。

 当山は日新上人の院号を取り慈雲山と称しております。

 江戸開府400年を記念して、平成十六(2004)年、当山第五十六世日總代に、本堂、山門、鐘楼堂、山道、諸堂を大修復、位牌堂が新築されました。

除厄・安産飯匙祖師<江戸十大祖師>

 正面にお祀りしております御祖師様は、江戸十大祖師のおひとりで、除厄・安産飯匙の祖師と申されております。日蓮大聖人は、文永十一年に佐渡流罪をご赦免となり、同年三月十三日佐渡をご出発し鎌倉に向かいました。その途中、武蔵国※粂川の辺りに住む関善左衛門は、通りかかりの日蓮大聖人に妻が難産であることを告げ救いを求めました。日蓮大聖人は求めに応じ家に入ると、飯匙を手に取り、御題目をしたため、産婦のお腹をさすり、抱かせ祈念すると霊験あらたかに安産、母子ともに健やかであったといわれます。

 その感応を拝し、一家で日蓮大聖人の教えを受け入信し、この報恩のため一家をあげて協力、日蓮大聖人のご尊像謹刻、武州※谷中に善性寺を建立しました。以来、除厄安産救護のご利益あらたかで、多くの庶民の信仰を集めたのであります。

 その後、ご尊像は上野感応寺を経て、元禄年間(約300年前)に瑞輪寺に奉安され、今日に至っております。

 また、正面左側には、御釈迦様を勧請しており、右側には関善左衛門様のお位牌を安置いたしております。

※武蔵国・武州……いまの東京都の大部分と埼玉県の全部と神奈川県の一部